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「……頼む」
少し気だるげな声と共に銀色の小さな入れ物を手渡される。二振りの間では、すっかり馴染んでしまったこの行為。最初にやってみたいと言ったのは自分だったが、鬼丸は思いの外あっさりとそれを受け入れてくれた。それ以来、寝起きにこうして、鬼丸の瞼に紅をさすことが、自分の役目となっていた。
一寸ほどの大きさの器物には桜の模様が緻密に施してある。蓋を開けて中身を見ると、幾度かの使用で紅は抉れていた。抉れた箇所は少し避けて紅を薬指に少量つけ、鬼丸の右瞼に指を近づける。静かに閉じられた瞼の真ん中から目尻に向かってそれをゆっくり伸ばす。初めてのときはべったりつけてしまって怒られたな、とふと思い出した。その時に比べれば、随分と上手くなった気がする。眼窩の窪みに沿わせて全体的に薄くつけてから、目の際へ向かって陰影が深くなるように重ねていく。そうして、目尻の濃くなったところは小指で少し暈す。目元を柔らかく見せるための、密かなこだわりだったりする。鬼丸には内緒にしているが。
「……出来たぞ」
指に残った紅は懐紙で拭い、容器の蓋裏にある鏡を鬼丸に向けた。血色を帯びた白い瞼が、ゆっくりと開かれていく。
この瞬間に、『自分だけが知っている鬼丸国綱』は居なくなる。
「……上出来だな」
「……礼ならこっちがいい」
そう言って、緩やかな弧を描いている鬼丸の唇に軽く口付けた。
「おい……」
紅をさしていない筈の頰がほんのりと染まっているのは、恐らく気のせいではない。昨夜も口に出すのが憚れるぐらいの行為をたくさんしたにも関わらず、こんな不意打ちの口付けで頬を赤らめる初心さに、理性を打ち砕かれそうになる。押し倒したい衝動をぐっと堪えて、蓋を閉じた紅の入れ物を鬼丸に渡した。
「そろそろ、朝餉の時間だ」
「む……そんなに腹が減っていないぞ」
「食堂に行けば嫌でも減ってくるだろ」
「行くのが面倒くさい」
「何言ってんだ。俺は先に行くぞ」
鬼丸が何か言おうとしていたが、敢えて気づかない振りをして立ち上がった。どこか不満そうな鬼丸の顔を一瞥して、部屋から出て行く。
閉じた障子の向こうから、ぼすん、と布団へ倒れ込む音がした。