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湿った不快な空気、蛙の鳴き声、少し冷えた風、今にも落ちてきそうな曇天。嫌な予感はしていた。せめて、本丸に帰るまで保ってくれと思ったが、天にそんな願いなど届くはずもなく。無慈悲な雨は叩きつけるような勢いで降り注ぎ始めた。肌に当たると痛いぐらいの大粒の雨。足を進めるたびに、泥水がびしゃりと跳ねて、桔梗色をした着物の裾に土色が増えていく。履物なんてもう履いている意味もないと思えるぐらいに泥まみれだ。滝のような雨の中、最悪な気分でぐずぐずの地面を踏みしめて歩いていたら、道すがらに古びた納屋を見つけた。そこには雨宿りに丁度よさそうな軒下もある。大典太が「あそこで雨宿りをしよう」と言ってきた。既にびしょ濡れで、今更雨宿りをしても……と思ったが、轟いた雷鳴と稲光がほぼ同時だった為、帰るのは危険と判断して、そこで雨宿りをすることにした。
「やはりこの時期は天気が変わりやすいな」
「……だから、夏は嫌いだ」
町中で買い物をしていたときは、日差しが強く、空も高かったが、帰路についた途端にこの天気の変わりようだ。季節的なものとはいえ、突然の荒天はやはり苛々する。鬼丸は元々雨があまり好きではないから尚更だ。
おまけに今日は主に仕立ててもらった軽装を着て出かけていた。おろしたばかりのそれは、雨と泥に濡れてしまって、ひどい有様だった。ぎり、と唇を噛み締めて、袂をぎゅっときつく握りしめた。じわりと滲む雨水が、指の隙間からぽたぽたと滴り落ちる。こんなことになって……と悔しさがこみ上げて来る。天の気まぐれだから仕方ないとはいえ、自分の見通しの甘さに腹が立つ。隣に居る大典太みたいに内番着でくればよかったと今になって思う。でも、天も呪わずにはいられない。
空に雷雨を呼ぶ鬼が居たら、斬ってやるのに……そんな事を考えていたら、ふと、ひんやりとした風が肌をくすぐった。濡れた肌から体温がすうっと奪われる。冷気を感じた途端、鼻の奥がツンとして、反射的にくしゃみが出た。
「……寒いのか?」
「……別に」
すん、と鼻を軽く鳴らしたら、また鼻腔がむず痒くなる。ああ駄目だ、ともう一度くしゃみをした。少し背中がぞくぞくする。軒下に吹き込む風は相変わらず冷たくて、ぶるりと身体を震わせた。すると、不意に肩を抱き寄せられ、そのまま大典太の腕の中に閉じ込められてしまった。
「なっ、なにを……」
「……こうしたら少しはぬくいだろう」
抱き締める腕に力が篭もる。濡れた服越しに感じる大典太の体温は心なしか高い。身体が冷えていたせいだろうか。温もりが存外に気持ちよくて、ずっとこのままで……なんて柄にもない事を思い始めていた。でも駄目だ。自分は大典太と恋仲というわけでもないのだから、こんなことはいけない。
「……はなせ」
離れたい。離れないとまずい。突き放そうと胸板を押したが、より強く抱き締められて、逃げ道は完全に無くなってしまった。単純に腕力だけでは、彼に敵わないのを自身が何よりも知っている。抗うのは諦めて肩から力を抜いた。
「風邪をひく」
「……風邪なんかひくか」
何を馬鹿なことを、と思いながら、大典太の肩口に顔を埋めた。小さく息を呑む音が聞こえて、遠慮がちに伸ばされた手が濡れた髪を柔く撫でる。
「……鬼丸」
名を呼ばれ、顔を上げると、目の前に紅い光が見えた。その光が消えたと同時に唇へ触れたのは、柔らかな感触。少し冷たさを感じた唇は、触れ合っているうちにじわりと熱を帯びていった。触れるだけの口付けは、次第に深いものへ変わり、口内に熱い舌が入り込んでくる。それでも、不思議と嫌悪感はなかった。抵抗なく受け入れていることに、自分でも驚いていた。
口吸い含めた性にまつわる事について、知識はあれど関心はなく、どちらかといえば苦手で忌避の対象でもあった。それなのに、こんなことをされて、何故、今の自分は平気で居られるのだろうか。
頭上で一際大きな雷鳴が鳴り響く。それと共に瞬いた稲光が痛いぐらいに眩しかった。
(ああ、そうか。おれは……)
雨脚はさらに激しさを増して、周りの景色を白く覆い尽くす。
――雨はまだ止みそうにない。